LOGINそれから、当たり障りのない会話が続いた。
趣味のこと、好きな食べ物のこと。プロフィール帳に書くような、差し障りのない質問と回答。
姉から叩き込まれた設定を頭の中で繰り返しながら、ボロが出ないようになんとか答え続けた。
ところが──。
「お仕事は、普段何をされているんですか?」
ひどく自然に投げかけられたその質問に、張り詰めていた頭が一瞬でフリーズし、口が勝手に動いた。
「広告の……プランニングを──」
しまった。姉は、ファッションモデルのはずだ。
「……っ、いえ。今はモデルの仕事を少しお休みしていて、その……裏方のお手伝いのようなことを」
取り繕うように、慌てて言い直す。顔に熱が集まるのを感じながら、テーブルの一点を見つめた。
「そうですか」
黒瀬さんは、それだけ返した。
責めない。訂正しない。不審がる素振りすら見せず、コーヒーカップを口へ運ぶ。その静けさが、かえって怖かった。
◇
しばらくして、リゾットが運ばれてきた。
「ここのリゾットは悪くない」
黒瀬さんが短く言った。一口食べて、確かめるように。それ以上の感想はなかった。
私も口にした途端、思わず声が出た。
「本当ですね。……あ」
うっかり、素の声が出た。
「おいしいものを食べた時、そういう顔をするんですね」
「……え?」
「目が、笑う」
低く、静かな声だった。
私は何も言えなくなって、ただグラスへ視線を落とした。
「お仕事、楽しいですか?」
問いが来たのは、その直後だった。
「……はい。大変なことも多いですが、チームで必死に考えたアイデアが形になって、誰かに届く瞬間が、私は──」
答えてから、唇を強く噛んだ。今のは完全に、西園寺柚葉の言葉だった。
モデルの仕事をしている人間が、チームで練るアイデアの話をするはずがない。
「理想論ですね」
一言だけ。それ以上、掘り下げるつもりはない、とでも言うように、黒瀬さんはコーヒーカップへ目を落とした。
沈黙が、重くのしかかる。──諦めて視線を外そうとした、その時だった。
「それで?」
低く、穏やかな問いだった。
うそ。まさか、聞き返してくるなんて。
「……先程は、モデルの裏方と聞きましたが。今のお話は、少し違いますね」
続いた言葉も、静かだった。責める口調ではない。ただ事実を確かめるような、それだけの声。
その静けさに、言い訳の余地も誤魔化す隙間も、どこにもなかった。
「……チームで必死に考えたアイデアが形になって、誰かに届く瞬間が、私はとても好きです」
結局、最後まで西園寺柚葉として答えてしまった。
「そうですか」
黒瀬さんは短く言った。今度もそれだけだった。
なのに、さっきとは少しだけ違う気がした。何かを確かめた、とでも言うような間があった。
◇
食事が終わる頃、外はすっかり暗くなっていた。
「今日は、貴重なお時間をありがとうございました」
席を立ち、私は深く頭を下げる。
これで終わりだ。二度と会わなければ、この危うい嘘が露呈することもない。
そう思っていたのに。
「また連絡します」
振り返ると、黒瀬さんがこちらを見ていた。値踏みでも品定めでもない、何かを確かめているような目だった。
それだけ言うと、彼は会釈をして去っていった。
その後ろ姿を、私はラウンジの入り口で呆然と見送った。
──また連絡する?
断られなかった。それどころか、次があるような口ぶりだった。
馬鹿なことを考えるな。気に入られているのは西園寺真帆であって、西園寺柚葉じゃない。
そうわかっているのに、胸の中に灯った小さな熱が消えなかった。
アパートに帰り、ドレスのままベッドに倒れ込む。天井を見つめながら、今夜の出来事を順番に思い返した。
コリアンダーの気遣い。左手への視線。「目が、笑う」という言葉。仕事が好きだと答えた時の、あの静かな「それで?」
見透かされている気がした。
でも──それだけで判断するのは、まだ早い。
コリアンダーは、たまたま私がメニューを見ていたのを気づいただけだ。仕事の話が漏れたのは、私が不用意だっただけだ。あの人は、何も知らない。
そう自分に言い聞かせながら、枕を抱きしめた。
その時だった。
枕元のスマホが、短く震えた。
見知らぬ番号からのメッセージ。
そういえば、食事が終わる直前、黒瀬さんが名刺を差し出してきた。
私も反射的にバッグから──西園寺柚葉の名刺を取り出しそうになって、慌てて手を引っ込めた。
社名入りの名刺を出せば、一瞬でバレる。結局、口頭で番号だけを伝えた。
それが、この番号だった。
画面には、たった一行だけ。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』
短い、ビジネスライクな文面だった。なのになぜか、画面から目が離せなかった。
──「また連絡する」と言った時の、あの迷いのない目を、思い出した。
十月の第二週、夜。柊さんの部屋で、いつものように穏やかな時間を過ごしていた時だった。テーブルに置かれた柊さんのスマホが、静かに震えた。画面を見た瞬間、柊さんの表情が、わずかに固まった。いつもの柊さんなら、仕事の電話であれ何であれ、迷わず出る。でも、今夜は違った。指がスマホの上で止まり、それから、画面を伏せるようにテーブルに置いた。「……出なくていいんですか」「いい」短い返事だった。それ以上、何も説明しなかった。着信音が鳴り止み、部屋にまた静けさが戻る。でも、さっきまでとは違う静けさだった。柊さんの視線が、一瞬だけ宙をさまよって、また戻ってくる。その一瞬に、私は初めて、柊さんが何かから目を逸らすところを見た気がした。「大丈夫ですか」「ああ」それだけだった。会話は、何事もなかったかのように続いていった。柊さんはいつも通りの調子でグラスに口をつけ、次の話題を口にした。でも、伏せられたままのスマホが、ずっと視界の端に引っかかっていた。◇その後も、時折思い出したように、私はスマホの方に目をやってしまった。柊さんは気づいていたのか、気づいていないふりをしていたのか、それ以上は何も触れなかった。いつもなら、こういう小さな違和感も、話せば教えてくれる人だった。今夜だけは、何かを聞いても返ってこない気がして聞けなかった。その夜。私が部屋を出るまで、着信は二度と鳴らなかった。それが、かえって不自然に思えた。帰り道。電車の窓に映る自分の顔を見ながら、ふと思った。柊さんにも、こんなふうに目を逸らしたくなる何かがあるのだと、今日初めて知った気がする。これまで、いつも私の過去に寄り添い、支えてくれる側にいた人だったから。その立場が、今夜だけ、少し入れ替わったような感覚があった。今度は、私がこの人を支える番なのかもしれない。ただ、まだ何も知らないままでは、支えようにも手の届かせ方が分からなかった。
十月の最初の土曜日、葵から『今日、時間ある?』とメッセージが届いた。いつもの気軽な誘いだと思って、駅前のカフェで待ち合わせた。先に着いていた葵は、いつもより少しだけ、そわそわしているように見えた。「どうしたの、なんか変な感じ」「……実は」葵が、両手でカップを包み込むようにしながら、目を伏せた。「朔さんと、ちゃんと付き合うことになった」一瞬、言葉の意味を飲み込むのに時間がかかった。「え、いつの間に?」「柚葉には、内緒で進めてたの、ごめん。お互い、変に意識されるのも嫌だったから」「全然いいけど……でも、そっか。そうなんだ」驚きと嬉しさが、同時にこみ上げてきた。あの日、コンペ会場の隅で拳を握りしめていた葵と、それを見つけて声をかけた朔さん。あの偶然が、こんな形に育っていたなんて。「朔さんって、見た目より真面目なんだよね」葵が、少し照れたようにこぼした。「毎日ちゃんと連絡くれるし、こっちの都合、ちゃんと聞いてくれるし」「お兄さんとは、だいぶ印象違うね」「似てるところも、あるんだけどね」葵が、そう言ってふっと笑った。その表情が、これまで見たことのない、柔らかいものだった。「でも、大丈夫なの?あの人、なんだかんだ黒瀬グループの御曹司だよ」思わずそう聞くと、葵が肩をすくめた。「最初はあたしもそれ、めちゃくちゃ気にしてた。柚葉たちみたいに、いろいろ大変なんじゃないかって」「うん」「でも朔さん、『家のことは関係ない、俺は俺として君を好きになった』って、真顔で言うんだよね。ちょっとキザなくらい」葵が、照れ隠しのようにコーヒーを一口飲んだ。「柚葉と柊さんを近くで見てきたから、余計に……ちゃんと向き合えば、大丈夫なんだって、思えたのかも」その言葉に、胸の奥が温かくなった。自分たちの関係が、誰か
伏見部長との対峙から、数週間が経っていた。季節は完全に秋へと移り、街路樹の葉が少しずつ色づき始めていた。会社帰りの風に、金木犀の香りが混じるようになった。その日、村田さんに会議室へ呼ばれた。◇「西園寺、少しいいか」いつもの穏やかな声だった。でも、この数ヶ月、何度も同じような呼び出しを受けてきたせいで、少しだけ身構えてしまう自分がいた。会議室のドアを閉め、向かい合って座る。村田さんは、しばらく何も言わず、ただこちらを見ていた。「業界団体の報告書、読んだよ」その一言に、心臓が跳ねた。「五年前のこと、話してもらえるか」覚悟を決めて、話し始めた。前の会社での横領事案。それに気づき、内部通報を決意したこと。証拠の集め方に問題があったこと。結果として、無関係な同僚を巻き込んでしまい、会社を辞めざるを得なくなったこと。そして、その五年前の出来事が、今になって、業界団体からの正式な報告という形で繋がったこと。すべてを、正直に話した。もう、隠す必要はどこにもなかった。◇村田さんは、しばらく黙って聞いていた。腕を組み、時折小さく頷きながら、最後まで口を挟まずに聞き続けてくれた。話し終えると、会議室にしばらく静寂が流れた。「……よくやったな、当時」村田さんが、静かに言った。その一言が、胸の奥にじんわりと沁み込んでいった。五年間、誰にも言われたことのなかった言葉だった。正しいことをしたはずなのに、誰からも肯定されないまま、ただ一人で抱えてきた過去。それが今、こんな形で少しずつ報われていく。「ありがとう、ございます」声が、かすかに震えた。村田さんはそれ以上、深くは聞かなかった。ただ、「大変だったな」とだけ付け加えて、会議室を後にした。◇その後の数日は、拍子抜けするほど、いつも通りの日常だった。企画書を作り、打ち合わせに
【真帆side】澄川奈緒の一件、伏見という人物との対峙。柚葉から、それらの顛末を聞いたのは、すべてが少しずつ落ち着きを取り戻した、九月の終わりのことだった。あたしがまだ何もできずにいる間に、柚葉は自分の手で、過去の全部にけりをつけていた。その事実に、遅れを取ったような、それでいて誇らしいような、複雑な気持ちになった。だったら、あたしも。まだ一つだけ、自分の手でけじめをつけていないことがあった。黒瀬さんに、会いに行くことにした。◇黒瀬グループの本社ビルは、これまで何度か訪れたことがあった。でも、今日ほど足取りが重かったことはなかった。エントランスの自動ドアを潜る瞬間、心臓がいつもより速く音を立てていた。アポイントは、事前に城島さんを通して取っていた。柚葉には、事後で構わないから、と伝えてあった。これは、あたし自身で決着をつけなければならないことだと思った。◇応接室に通されると、黒瀬さんはすでに席についていた。以前、パーティー会場で『場所をわきまえてください』と言われた時の、凍りつくような声を思い出す。今日、この人がどんな顔でこちらを見るのか、想像するだけで背筋が冷えた。でも、実際に顔を合わせた黒瀬さんの表情には、あの夜のような怒りはなかった。ただ、静かに、値踏みするようにこちらを見ているだけだった。静かすぎることが、かえって落ち着かなかった。「……お忙しいところ、すみません」「いえ」短いやり取りの後、しばらく沈黙が続いた。何から話せばいいのか、頭の中で何度も準備してきたはずの言葉が、いざとなると出てこなかった。深呼吸をして、あたしは口を開いた。「……柚葉の姉として、あなたに謝らなければならないと思って来ました」黒瀬さんは何も言わずに、ただ黙って聞いていた。「あの子を、ずっと利用してきました。脅して、身代わりにさせて。今回の記事の件
私は一度、深く息を吸い込んだ。「取締役会に届いた、黒瀬グループの内部文書。あれを送ったのは、あなたですか」伏見部長の目が、初めて揺れた。一瞬、しらを切ろうとする気配があった。でも、それも一瞬だけだった。「……もう、知ってるんだろう。今更、しらばっくれても仕方ない」自嘲するような声だった。「柊さんは、もう証拠を掴んでいます。文書の書式が、うちの会社のものと一致していたと」「……そうだよ。悪いか」開き直ったような答えだった。「業界にしがみつくには、それくらいしか手が残っていなかった。それだけだ」そう言った後、伏見部長の目に、また別の光が宿った。「お前も、いい思いをしてるんだろう。黒瀬の女になって。俺を切り捨てて、うまくやったもんだ」その一言に、周りの空気が一瞬冷えたように感じた。挑発だと、すぐにわかった。動揺を誘って、少しでも優位に立ちたいだけの、最後の悪あがきだった。以前の自分なら、ここで言葉に詰まっていたかもしれない。だけど、もう違った。「黒瀬さんは、私が何者でも関係ないと言ってくれました。あなたのような人には、一生わからない感情だと思います」静かに、でもはっきりと返した。伏見部長の顔から、すっと血の気が引いていくのが見えた。窓の外を、通行人が何人か通り過ぎていった。喫茶店の中は、コーヒーの香りと、重い静寂だけに満ちていた。◇「……今更、詫びるつもりもないでしょう」しばらくして、私は静かに言った。伏見部長は、答えなかった。ただ、視線を落として、テーブルの木目を見つめていた。「私も、詫びてほしいわけじゃない」正直な気持ちだった。この人に謝ってほしくて、ここに来たわけではなかった。「ただ、伝えたかっただけです」椅子から、静かに立ち上がった。手をつけなかったコーヒーカップに、一度も口をつけないまま、伝票を手に取る。「私は、間違っていなかった」
伏見部長から指定されたのは、会社から少し離れた、古い喫茶店だった。かつて、あの会社にいた頃、何度か打ち合わせで使った場所だった。当時と変わらない古びた木の扉、色褪せたメニュー表。懐かしさよりも先に、胃の底が重くなるような感覚があった。会社帰りに何度も通った道を、今は違う立場で歩いている。同じ景色のはずなのに、当時とはまるで違って見えた。葵にだけ、簡単なメッセージを送った。『これから、伏見部長に会ってくる。終わったら連絡する』すぐに既読がつき、返信が来た。『無理しないでね。何かあったら、すぐ電話して』その言葉に、少しだけ気持ちが軽くなった。一人で行くと決めたのは、これは自分自身で決着をつけるべきことだと思ったからだった。◇喫茶店に向かう道すがら、何度も足が止まりそうになった。以前、元上司と鉢合わせそうになったとき、ビルの柱の陰に隠れて息を殺していた自分を思い出す。あの頃は、声を聞いただけで体が竦んだ。けれど、今は違う。足取りは重いけれど、止まってはいない。それだけでも、随分と遠くまで来たのだと思えた。店の扉を開けると、奥の席に伏見部長がいた。五年前と比べて、随分と痩せていた。かつては自信に満ちていたその表情は、今はどこかやつれ、目の下に濃い隈ができていた。仕立ての良かったはずのスーツも、心なしか肩の辺りが余って見えた。業界団体からの正式な処分──失脚という現実が、この数週間でこの人からすべての余裕を奪い去ったのだと、一目でわかった。「……座れよ」促されるまま、向かいの席に腰を下ろした。「ご注文は」店員が水を置きながら尋ねてきたが、コーヒーを一杯頼んだだけで、それ以上は答えられなかった。運ばれてきても、手をつける気になれなかった。しばらく、重い沈黙が流れた。膝の上で重ねた手に、無意識に力がこもっていた。かつて、この人の前では、いつも言葉を選び、顔色を窺っていた。
一段階低くなった姉の声が、耳の奥に刺さった。『あたしが今の彼との話をまとめるまで、黒瀬の目を逸らし続ける必要があるの。黒瀬家とうちの家、色々と込み入った事情があるのよ。あんたが勝手に終わりにして、黒瀬側から実家に何か連絡でもされたら、全部おじゃんになる。わかる?』「わかってる。でも──」『断るなら、五年前のこと、全部バラすから』返事も待たず、音が消えた。また、五年前のことで脅されてしまった。昔から、姉は私の弱いところを探すのが上手かった。私はしばらく、その場に立ち尽くしていた。
『先程は、お時間をいただきありがとうございました。──黒瀬柊』彼からのメッセージは、それだけだと思っていた。数秒後、同じ番号から、もう一通届いた。『次回、ご都合の良い日を教えていただければ、合わせます』画面の番号を、もう一度確かめた。間違いない、黒瀬さんからだ。お見合いの書類に載っているのは、姉の連絡先のはず。さっき、私が口頭で伝えた番号──黒瀬さんはそちらに送ってきたのか。「合わせます」という一言。感情がない、と思った。温かくもなく、冷たくもなく、ただ的確だ。
ゆっくりと扉を開け、一歩足を踏み入れた瞬間、思わず立ち止まりそうになった。高い天井に広がる、クリスタルのシャンデリア。香ばしいコーヒーの香りと、白く気高く咲き誇る大輪の胡蝶蘭。磨き上げられた大理石の床に、自分が履いている安物のヒールの音がカツカツと不躾に響く気がして、それだけで萎縮しそうになる。場違いにもほどがある……。心の中で小さく呟き、緊張で強張りそうになる手を、そっとドレスの上の膝に置いた。ここで怯んだら、一瞬で「偽物」だと見破られてしまう。案内された席に着いた瞬間、背筋が自然と真っ直ぐに伸びた。膝を揃えて座る。手をテーブルに乗せない。視線を落としすぎないように前を向く。
「あなた、西園寺真帆さんじゃありませんよね?」その一言で、心臓が止まった。白いカップを持つ指先から、血の気が引いていく。震えそうになる手を悟られないよう、私はそっとカップをソーサーへ戻した。小さな陶器の音が、静まり返ったカフェにやけに大きく響く。どうして?どうしてバレたの?「……何のことでしょうか」かろうじて笑みを作る。けれど、目の前の彼は微笑みもしなかった。「無理に誤魔化さなくて結構です」向かいに座る男──黒瀬グループの社長である黒瀬柊は、こちらをまっすぐ見ていた。責めるでもなく、怒るでもなく。ただ静かに、"真実"だけを見